働きやすく働き甲斐のある組織づくりに向けて

ヒトは生活や仕事をする上で、物理的な接触刺激がないと安心できないし活力が生まれないということを、ビジネスとは少しかけ離れた話から始めたい。

序論 課題1:人権DDを手順通りに形を整える、ことに汲々となっていないか? 課題2:本来的に、PDCAサイクルを回す仕組みになっているか? 課題3:仕事への意欲が湧く仕組みがビルトインされているか。(全従業員が「働きやすさ」と「働き甲斐」の両方を感じる組織になっているか?) まとめ:職場風土の改善に向けて

序論:皆さんは、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が、線虫を使った老化メカニズム研究をしていることをご存じだろうか?おとぎ話の世界では、浦島太郎が竜宮城から故郷に戻ってくると、友人知人はとっくに死んでしまい、自分も玉手箱を開けたとたん一気に老爺になってしまう話がある。しかしながら、宇宙空間ではリアルな話となる。アインシュタイン博士の相対性理論から「速く移動するほど、時間の進み方が遅くなる」ことは実証されており、実際、地球時間より高速で移動するGPS衛星は、常に時間を補正しながら動いている。

JAXAの研究をザックリと説明すれば、宇宙船内に滞在させた線虫と同一条件の地球の線虫の老化物質の生成変化を比べることで、無重力状態では感覚神経系が不活性化し老化速度が遅くなる、という仮説を導いている。逆に言えば、無重力の宇宙空間では線虫に接触刺激を与えないと、動きが全く活性化せずに元気が出てこないらしい。似たような例として、無重力空間の宇宙船内で寝る際には、意図的に枕や布団をゴムか何かで身体にくくりつけ接触した形で入眠しないと安眠しにくい、という。確かに、右側を下にしてとか自分用の枕でないと安心して眠りにつけないという人の話は、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。

また年寄りくさい話で恐縮だが、友人の中に、老化防止のためにダンス教室に通い始めた人がいる。歩く姿勢が良くなる、心肺機能が高まる、運動量が半端ない、といった理由から始めたそうだが、最近、こうした理由に加えて新たな発見があったそうだ。それは女性パートナーと手をつなぐ腰に手を回すというダンスの基本所作にあるという。ダンスの女性講師から、「そんなに遠慮しないで!もっとしっかり握る!手の位置はココ!」など叱咤激励の指導を受けると、パートナーに対して、大学生時代の合コンのような緊張感と(変な意味ではなく)ワクワク感を感じて精神的にも張りが出て随分と若返る、と嬉しそうに語るのだ。ヒトは知的刺激だけでなく、もっと根元的に生物的な接触刺激を受けることが、元気の秘訣ということだろう。

最近、世間の常識を大きく逸脱した人権に関する事件が、芸能界や自動車整備業界で起きている。こうした業界に限らず、教育業界など様々な分野で人権無視のケースが頻発しているため、政府を始めとして各業界で、人権擁護の姿勢を明確にする動きが活発になってきている。

特に、人権デューデリジェンス(人権DD)という新しい人権擁護ガイドラインを導入する動きが顕著である。人権DDとは、会社としての人権方針を策定公表し、苦情処理メカニズムを制定した上で、人権DDの実施(人権リスクの特定~予防措置~モニタリング~情報開示)を展開するものであり、至極真当な手続きである。ここからは、その動きを歓迎しながらも、見落とされがちと思われる本質的な課題について思うことを、述べてみたい。

課題1:人権DDを手順通りに形を整える、ことに汲々となっていないか?

人権DDの求める要件を満たしながら進めることは、確かに大変面倒なことだと思う。人権DDが新規な管理手法であるために、担当の管理部署からのお仕着せになりやすく、現場が活動主体となる仕組みになりにくくなるのは想像に難くない。このため、形式的な法令違反チェックや表面的な再発防止策の策定などルールベースの活動、管理部門中心の局所的対応、などにより、肝心の現場でいわゆる『コンプラ疲れ』が生じていないか、確認することを勧めたい。

人権リスク管理の全体的枠組みのあるべき姿は、①事業部門による自律的管理、②管理部門による牽制機能、③監査部門による検証確認、という体制の構築設計が望ましく、そのために必要な対策を講じることが重要になる。

経営マネジメントは、自らの積極的なコミットメント姿勢は当然として、現場が生き生きと人権擁護活動のオーナーシップを持って活動するための前提は何か、というような発想が必要ではないか。例えば、社内サークル活動や社員食堂利用の昼食食事会など、社員間のコミュニケーションを活性化させる仕組みを組織内に組み込むこと、などどうだろう。会社生活の中で、社員同士が積極的に交流する場をつくることが、管理部門による他律的なルールベースや自己中心的な発想からの“やってはならないマインド”から、現場部門による自律的な誠実さや弱者への配慮から“やるべきではない、他者との良い関係を築くマインド”への転換を図ることにつながるものと思われる。

課題2:本来的に、PDCAサイクルを回す仕組みになっているか?

先駆的に人権DDの仕組みを導入して、情報開示を既に行っている各社の公表内容を吟味してみると、人権課題を上手く整理し各種の予防措置対策の記述はかなり充実しているため、一見すると上手く機能しているかのような印象を受ける。しかしながら、効果の確認に時間的経過が必要という事情もあるだろうが、モニタリング評価の公表内容が圧倒的に不足している場合が多い。このため、正直なところ、効果の程度が良く理解できない発表内容が散見される。もちろん、社内的にモニタリング評価した中には機微情報も含まれており、そのままでは外部公開できない性質の情報が含まれているということもあるだろう。それを考慮しても、多くの企業の情報開示の内容は限定的なものになっている。

実際には、予防措置の全てが都合よく上首尾に進むわけはないはずであり、上手く行ったことと行かなかったこと、その原因についての考察を自省的に記述したほうが、公表内容の信憑性を高めて、計画立案→実行→検証評価→改善対策→計画立案というPDCAサイクルを、着実に実施しようとする企業姿勢が好感を持って受け入れられると思われる。

効果検証を行うにあたり、事前に、予防措置の改善目標を数値化して捉えておくことが、大事である。仮説と現実の乖離を数字で理解できれば、仮説検証がより明確になる。予防措置はあくまで仮説から策定されたものであるため、全てが予定調和的に上手くいくとは限らない。もし期待通りの結果が出ない場合は、効果測定のやり方の問題か、予防措置そのものの問題か、吟味する必要がある。それでも、改善効果が認めにくいとなった場合には、さらに上流に遡って、元々設定した人権リスク課題の領域(人、場所、時間など)が見誤っていないかどうか、振り返る必要がある。つまり、検証評価は、「課題設定」と「予防措置」の両方に対して確認する視点が重要と思われる。

人権問題に関する潜在的リスクの前広察知と、顕在化前段階で未然に防止するという基本目的のために、課題設定とその予防措置の双方について、数値目標を設定した上で、仮説の検証作業をしっかり実施する、というPDCAサイクルを回し、徐々に組織内に平準化標準化の仕組みをビルトインしていく、こうした姿勢が本当の改善活動につながる。

課題3:仕事への意欲が湧く仕組みがビルトインされているか。(全従業員が「働きやすさ」と「働き甲斐」の両方を感じる組織になっているか?)

ハーズバーグ理論によれば、働く意欲や満足度は「衛生要因」と「動機づけ要因」の二つの要因で決定すると言われている。「衛生要因」とは、職場で安全安心が確保されていると「働きやすさ」を感じ、逆にこれがないと不安や働きにくさを感じるような要因を指す。「動機づけ要因」とは、難しい仕事を達成した時などに「働き甲斐」としての満足感を感じ、逆にこれがないとやる気が起きないような要因を意味する。

この考え方を援用して考えてみると、人権DDの活動はコンプライアンス遵守による「働きやすさ」の改善、即ち「衛生要因」だけに焦点を当てた活動である。このためハーズバーグ理論に従えば、人権DDだけでは不十分ということになる。人権DD実施により職場の不安感を取り除き「働きやすさ」を改善させながら、同時に、動機づけ要因である「働き甲斐」の向上にも注目して、従業員の満足度そのものを引き上げる。「衛生要因」と「動機付け要因」の二つの要因が満たされることで、職場のモチベーションが保たれ、仕事の満足度は向上すると思われるからだ。

<働きやすさと働き甲斐の関係性>

 従業員エンゲージメント調査(働き甲斐の意識調査)
高い低い
人権DDアンケート調査 (働きやすさの意識調査)高い職場不満がなく仕事意欲が高い職場不満はなく仕事意欲が低い
低い職場不満あるが仕事意欲は高い職場不満があり仕事意欲も低い

まとめ:職場風土の改善に向けて

もう少し大きな視点に立って考えれば、経営者にとって一番大事なことは、職場風土の改善ということになろう。例えば、企業風土に問題があると、上意下達のみで自由な議論がしにくい雰囲気、非合理的な数値目標がプレッシャーになり過度な緊張感を生んでいる状況、不都合な問題が上に伝わらずリスクが常態化、といった状況が露呈する。

こうした職場環境を変革していくためには、企業風土そのものを改善していくことが重要となる。それでは、安心して「働きやすい」職場環境をつくりながら、同時に、意欲的に仕事に取り組む「働き甲斐」のある職場づくりを達成していくための、有効な手立ては何だろうか。ここでようやく、冒頭で紹介した話を思い出してほしい。

重要と思われることは、会社としての明示的な倫理・行動基準があることは当然の前提にして、結局のところ、人権DDや従業員エンゲージメントなど難しい言葉を使って理屈で理解してもらうのではなく、存外、動物であるヒトには物理的な刺激がモノをいうのではないか。例えば、日常の職場での何気ない普段の声かけや、落ち込んだ時の肩ポンや、首尾よく上手く仕事が進んだ時のにっこり笑っての握手など、単純だが、こうした物理的な接触刺激をおこなうことが効果的ではないかと思う。

こうした人間的な温かみのある関係を自ら率先垂範して、まず周囲の人たちに対して意図的に示していくことが、経営者として一丁目一番地にやるべきことではないか。そうすれば、必ずや幹部や上位社員の目に模範的な行動として映り、自分たちも真似ることで組織全体に伝播していく。

現場の従業員は、自分をひとりの人間として気にかけてくれている、自分の意見を尊重して聞いてくれる、と皮膚感覚で感じとることができる。仲間や職場への安心感や信頼感を持つとともに、仕事へのヤル気にスイッチが入り、職場全体の風土を改善させていくことに繋がっていくのではないか。

(正直なところ、きりがないと思われる)人権DDやエンゲージメントの細かいルールづくりとその徹底もさることながら、ヒトが本来的に持つ、関係づくりにおける接触刺激の重要さを信じ、これを中心軸に据えた職場風土改善の活動を進めることが適切ではないかと考える。 最後に、マネジメント論の泰斗ピーター・ドラッガー教授の言葉を紹介し、本稿を締めくくる。Culture eats strategy for breakfast. 「職場風土は戦略に勝る」